猫の額

猫が好きな大学生のブログです。

4/29日記。

フォロワーの家に泊まりに行った。

3:30と7:15に目が覚め、二度寝、三度寝を繰り返していた。家主が起きてシャワーを浴びた後にお風呂を借りた。お風呂の床に直接シャンプーとコンディショナー、ボディソープのボトルが置いてあってちょっと面白かった。

2時間おきにタバコを吸いながら家主の好きなHIPHOPのPVを延々と見ていた。

11時ごろ、ミスドにドーナツを食べに出かける。見た目優先の開けづらいパッケージに包まれた、どう見ても取り出しにくそうな抹茶味のドーナツを見たフォロワーが「デザインじゃん」と言っていたのだが、フォロワーのこういう言葉遣いが好きなのだ。

家に戻り、またダラダラしながら音楽を聴く。今度は家主のおすすめのPVの曲たち。世界観が独特でどうしてもストーリーが理解ができない。異形の黒い生き物に追いかけられるプラチナブランドの女の子やホテルでラリった男たちが目を剥きながら歌い上げているもの。動画を見るたびにフォロワーの解説が入り、HIPHOPに対する造詣の深さに感心するし勉強になる。「好きだから」できちんと文化的背景や文脈まで調べることができるのは本当に強いので尊敬している。やはり芸術と学問は文脈が重要である。

15時過ぎ、回転寿司店に行き、10皿と茶碗蒸しを食べる。駅まで送ってもらい、そのまま解散。

帰りの電車の途中、好きなバンドが参加する対バンイベントの代替イベントがオンラインで行われるので鑑賞する。出演バンドがそれぞれのライブ映像を流すというものだったのだが、なかなか面白かった。音源とは全然違う歌い方で、ライブの方が断然好きだったバンドがあり、生で聴きたいと思った。振替公演の告知も出たので、追加発券が出るようなら買おうと思う。

帰宅後、ライブイベントの続きを見る。主催のバンドはやはりそこまで好きではなさそうな感じ。終わった後はお風呂に入って食事をとる。虚無なので早々にベッドに上がり、電話をする。人と話していると気が紛れる。

電話をしている間にもLINEをこなす。セフレ宅の漫画が読みたくて連絡を入れてみるも、忙しくなるようで難しそう。ちょっとつらい。

ゴールデンウィークに車で遠出できそうな予定が立ったので非常に楽しみ。

日記、始めました。

最近生活が狂っているので日記でも書いて自身を振り返って自戒しようと思い立った。

1ヶ月でTinder経由の10人と新しく会い、そのうち6人と行為をした。心療内科ではセロトニンの出すぎかもしれませんね、と言われたが、一度増やしたものを減薬してもあまり変化がない。セロトニンが出すぎると自暴自棄になってしまうそう。ただ、そのような自覚はなく、心の声に素直に従っているだけである。近況を話した友達には自暴自棄になっていると言われてしまったが。

まあ、そのようなわけでなんとなく生活が爛れているので、振り返って自戒するために日記をつけ始めようと思うのだ。

ブログが長いこと

ブログの記事を書くのは楽しいのだが、書き始めるときに決めたテーマで書き進めていると、どんどん話が膨らんでいき、落とし所がわからなくなる上にだんだん飽きてきて、尻切れになる。慣れていないこともあるのだろうが、簡潔な文章の方が読みやすく理解しやすいと思っているのでもどかしい。話が膨らんでいくのは、自分の主張が誤解されないように色々と予防線を張っているからだと思う。他の人にどこまで説明すれば正しく理解してもらえるかがよくわからないからかと思ったが、別に他人に理解してほしいわけではないので、もしなにかで反論された場合に対応できるように根拠を示しておきたいだけなのかもしれない。

大学のレポートを書くときなどは基本的に期限ギリギリなので、綿密に考えないでザザッと書いてしまう。ブログは際限なく時間を使えるから、本筋に関わらないことも書き足すのだと思う。簡潔にまとめたいのならば時間を区切るか、好きに書いた後に削ればいい。

一通り反省はしたが、考えを整理することが目的のブログなので多分これからもつらつらと長いブログになるのだろう。

曖昧と嘘が苦手なINTP

話している時に曖昧な言葉を遣われたり嘘を吐かれたりすると、途端に相手が何を言っているのかが分からなくなる。混乱してすごく困ったので、整理してみたい。
まず、混同されると議論にならないので、ここで曖昧と抽象というのは別々の言葉であることは断っておきたい。なぜなら、曖昧というのは全体をぼかされた様子であるのに対し、抽象はある個別具体的な事柄の共通点をあらわしたものだからである。


本題に戻る。曖昧な言葉、つまり一意でなく、意味に幅があるような言葉であり、例えば好きとか嫌いとかはこれに当たる。好きや嫌いについてであるが、こういう単語を用いる時はそれなりに自分なりの定義をつけている。それ自身の定義をし始めると色々なパターンが出てきてしまうので、ここでは好きな食べ物と嫌いな食べ物の話をするとしよう。私はバナナが嫌いで、プリンが好きである。「嫌いな食べ物」は簡単で、それと接している時に不快に感じる食べ物である。美味しいと感じない、匂いを嗅ぐと気分が悪くなる、見た目が気持ち悪い、嫌なことを思い出す、などなど。自分の場合は、バナナは味はそこまで悪くないが、匂いが甘ったるく感じて不快なのと、食感がねっちょり、もったりしているのとでなるべく食べたくない。すなわち、嫌いである。

しかし、「好きな食べ物」となると、難しい。何をもってして好きとするのか、わかりやすい指標がない。必ずしも美味しいから好きであるわけではないからだ。多くの場合「まずいから嫌い」となるのとは非対称的なのが面白い。プリンが「好きな食べ物」である理由は、諸事情で3日間絶食させられた後に一番食べたかったもので、なおかつ2週間毎日1個以上食べ続けていても飽きなかったからである。よって、好きな食べ物は2週間毎日喜んで食べられそうなもの、という自分なりに定義づけをしてある。こんな感じで定義しながら言葉を遣っている。口にする必ず全ての言葉を定義しているというわけではないが、曖昧そうな単語ほどそうする傾向にある。
うまく定義づけられれば遣うのは難しいものではないのだが、うまく定義することが一番難しい。「プリンが好き」と言うときは今でも一度本当に好きか?すなわち好きの定義はそれで本当にいいのか?と考える。

この間、恋人に相手のことを好きかどうか尋ねられた時にもとても困惑した。少年漫画の鈍感な主人公のように「好きだよ、人として」という答えが求められているのではなく、恋人として好きかどうかを聞かれているのはわかった。が、どう答えていいものかがわからない。他人に相手を好きかどうか尋ねられたのが初めてであったし、何をもってして好きと言うのか分からなかったからである。嫌いであれば付き合ったりはしないであろうし、そもそも一緒に出かけたりしない。ただ、人に対して「好き」というのがまだきちんと定義づけられていないのだ。相手から言われるときも、何をもってして好きなのか気になるし、それがわからないので「ふーん、好きなんだー」と思っている。

「好きな食べ物」論理を借用すると、誰とも会っていない状態で一番会いたくて、2週間以上毎日会っても喜んで会える人、ということになりそうだが、流石に2週間以上毎日会っても喜べるかはわからない。前者の定義でも一番最初に頭に浮かぶのは実家の猫なので、微妙、と言うほかない。既存の人間関係の内側であれば一番適するのだが、そもそも相対的に決めるべきことではないと思う。相手から言われるときも、何をもってして好きなのか気になるし、それがわからないので「ふーん、好きなんだー」と思っている。

結局「好きということがどういうことかわかっていないので答えられない」と伝えておいた。文字にするとなかなかパンチがあるが、きちんと答えが出ていないのに解として提示するのは自分にも相手にも益がない気がしてしまう。

そういうわけでふわふわとした定義の定まらない言葉でのやり取りや感情について議論することができないため、こういう風に定義するとああだよね、でもこんな感じで定義するとこうなるよね、みたいな話し方になるか、押し黙ったままになる。友達と話す時は、あらかた言葉の意味の合意があり、曖昧な言葉が遣われないか、だいたい決まった遣われ方をしているので気楽に話せる。恋人と話すときは自分はもっぱら聞き役なのでふんふんと聞いていて、曖昧な言葉が出てきてもすぐに聞くことはせずに、こういう風に遣うのか、こういう意味で扱っているな、と情報を拾っている次第である。

 

基本的に以前話していたことと言っていることが変わっていてもとても混乱する。例えば、以前した話と似たような会話になると話の流れが予想できるのだが、そこに違いが生じている時である。現在の内容が嘘であることもあるし、過去言ったものが嘘であることもあるし、誇張であることもあるし、曖昧な言葉遣いが故であることもある。そういうとき、前はそう言ってなかったじゃん、となり(必ずしも指摘しない)、聞き間違えたか?勘違いか?となる。そのあと、何が違うのか、どこが違うのか、変化したのか、それとも前言っていたことが事実でないのか、と考えて、ひとたび原因が見つかると納得して事実を修正する。INTPは嘘や矛盾を発見するのが得意で〜と言われる所以だと思う。

しかし、実際自分は騙されやすい方だと思うし、盛った話も割とそのまま信じる方だ。ただ、前提知識などがある程度与えられている状態だと無意識にそれを参照しているので、違いに気付きやすいだけだ。自分がこのように人の話を聞いていて、嘘や違いがあるととても気になって話の中身がそっちのけになるので、なるべく嘘は吐かないようにしている。多少失礼でも本音を言おうとするのはそういうところでもある。

これは気分を害すること、すなわち感情面を軽視して、混乱を避けるという実利を取ることの説明になりそう。

 

16personalitiesから2箇所引用するが、この記事のテーマに一番沿っている箇所なのではないだろうか。

“論理学者”型の性格 (INTP-A / INTP-T) | 16Personalities

パターンを好み、発言の矛盾点を指摘することにかけては、ほぼ趣味と言ってもいいほどなので、論理学者型の人に嘘はつかない方が良いでしょう。

さらに、主機能のひとつに論理型特質を持ち、感情的な訴えは一切理解できない傾向があるため、論理学者型の人達に対しては、最低限の情緒的サポートも望めません。根本的な問題の解決方法として、論理的な提案を並べることが非常に多く、道理型の仲間から疎まれることもあります。こうした見方は、ほぼすべての社交的な集まりや目標にまで及び、夕食を計画する際や結婚する時などにも、独創性や効率の良い結果を非常に重視します。

 

以上のことを踏まえると、INTPは曖昧さと嘘との相性がよくないMBTI型なのかもしれない。

成績と生活の話

前期の成績を見て、大学ってつまんねえなと思った。

2018年度の前期は、大学生活が始まってから初めてまともに行けた学期だった。もちろん体調は万全ではなかったし、鬱っぽくなったこともあって、いつ最悪の状態になるかヒヤヒヤしていた。主にやる気の問題だったが、試験勉強をやった科目とそうでない科目もあった。それなりに時間をかけて勉強した科目もきちんと理解できておらず、単位が取れるかどうか不安だった。

蓋を開けてみれば試験に行かなかった1科目以外は全部単位が取れていたし、そこそこの成績も付いていた。これで履修したことになるのだと思い、安堵しつつもがっかりした。まだ理解しきれていないのに。ともあれ、こんだけ何もしてないのに、ふつうに出席してそれなりに勉強しさえすればいい成績なんて難なく取れてしまうものなのか、と思った。高校と変わらない。このようなシステムではないのがアメリカやヨーロッパの大学なのだろう。ますます一度は留学しておきたくなった。

 

後期が始まって1ヶ月近くが経過したが、昨日と今日、風邪を引いて欠席したことを除けば今のところとても順調だ。というのも、今学期から一人暮らしを始めたからだ。大学に行くのに電車に乗らずに済んでいることが非常に大きい。やはりある時間までの電車に乗らなければ間に合わないというタイムリミットがあることと、1時間弱立ちっぱなしで電車に乗る必要があることがダメだったのだと思う。

生活面でも改善したと思う。1週間に2日ほど風呂に入らずに寝てしまうことがあるが、実家にいた頃よりは確実に頻度が下がった。甘いものの常備がなくなったので無駄な間食もしなくなった。1週間に1回は掃除をする。ユニットバスなので風呂掃除は3日に1回。食事は全部自炊だ。5分程度の遅刻はまだあるが、生活の調整次第でなくなりそうだ。具体的には、入浴は帰宅後すぐにして、掃除、洗濯と弁当の下ごしらえは夜のうちに済ませることだ。相変わらず入浴を帰宅後すぐにできないので、そろそろなんとかしようと思う。服を脱げばいいのだろうか。

 

せっかくなので、今期は真人間を目指しつつ、いい成績を目指してみようと思っている。

才能と理想

二十億光年の孤独を読んだら、詩そのものに対する感想よりも18歳の時に才能の片鱗すら見つけられなかったことへの悲しみの方が先に浮かんできて、それがまた悲しかった。

才能を羨むでもなく、どうやったらこんな文章を書けるんだろうと想像するでもなく、なんで自分にはどの分野に才能があるのかも分からないのかというつまらないことを思ってしまうなんて。

才能は1万時間使った分野に花開くことは分かっているのに。今まで自分が時間を費やしてきたのはなんだったんだろうとばかり考えてしまう。もっと時間を濃縮させないと自分の理想に届かない。

いつもいつもこうやって自分の理想に首を絞められている。もっと自分のことに頓着しないで、今やりたいことをやりながら生きたい。

最近改善したこと

新年度が始まって2ヶ月が経った。

今は週4で1限から4or5限まで授業、週3で家庭教師、週1でシンクタンクでバイトという生活をしている。たまに1限の授業に遅刻をしたりするが、基本的にほぼ皆勤で出席できている。

今までに比べて、色々なことが大きく変化した気がする。

 

まず、授業に対する義務感が大幅に小さくなった。

予備校に通っていた時期のあたりから「〇〇しなければならない」という意識を持ちがちで、調子のいいときはいいが、落ち込んだときには罪悪感でボロボロになっていた。前年度末に大学を休みまくっているうちに、そもそも自分は義務感で動けるタイプではないことにふと気付いて、条件付き許可に変えるようにしてみた。例えば、「授業に出席せねばならない」を「単位が危なくならないなら授業に行かなくてもいい」に変えたり、「風呂には夜入らなければならない」を「学校に行くまでならいつ風呂に入ってもいい」にしたりするなどだ。

少し意識を変えるだけで精神的に余裕ができたし、安定するようになった。原因を考えてみたところ、親からの抑圧とプレッシャーに起因する気がした。今でも、大学が家からそこそこ近いので実家暮らしなのだが、何かにつけて母親にああしなさいこうしなさい、早く〇〇しなさいなどと言われる。それが刷り込まれていて、自分でも「〇〇しなくてはならない」と思い込むようになったのだろう。色々な恩恵を受けているので文句を言うべきではないのはわかるのだが、「早く〇〇しなさい」と言ったところで効果がないのは、20年ちょっと面倒見てきて気付かないのかと思う。まあ原因がわかったところでそれ自身を変えることはできないので、上手いこと距離を取れればいいと思った。自分が規範的な意識を持っているのは母親が原因であると分かっただけで収穫である。

次に、飲食のバイトをやめたことだ。

そもそも知らない人と話すことが苦手なのに2年弱も接客をしていたこと自体、今となっては奇跡だと思う。2ヶ所で、実質半年ずつくらいしか働いてはいなかったけれど、それでも1年間働いたことなる。2つめのところで、ストレスのせいか、落ち着いていた病気が悪化して社員に辞めることを伝えた時に「君は接客業向いてないと思っていたよ」と言われ、「もっと早く言ってくれ」と思った。時給がそこそこ高かったことが1番の要因だと思うのだが、本当になんで続いていたのだろう。まあ、接客が向かないことが身をもって理解できたのでいい勉強になったと思うようにしておこう。

3つ目はサークルを辞めたことだ。

同期が、感情論で動く「「真面目」」な人間しかおらず、相互理解が一切できなかったことがストレスでしかなかった。同期は下級生の面倒すらほとんど見ず、病気で休みがちの自分がそのフォローをするという事態になっていた。それなのに部会に出席できないことを理由に退部させられそうになった。サークルのことを考えると虚しくなる。今は後輩が頑張ってくれているので安心して辞めた。

最後は体調の認識の仕方である。

今までは体が動かなくて家から出られなかったことに対して罪悪感を抱いていたが、今になってそれもメンタルの不調だったと気づいたので、だるい時は頑張れない時だと認識できるようになった。頭痛腹痛発熱に関してはロキソニンを飲むしかないし、それ以外は睡眠以外に改善方法がない。家庭教師を始めてからは、休むと振替授業の設定が面倒なので、体調が多少悪くても気のせいだと思って仕事ができるようになった。だるくてやる気が出ないときはとりあえず着替えて家を出ればいいことにした。

 

もしかして、遅刻してはいけない環境が一番しんどかったのではないか。飲食や塾講師のバイトは5分前には指定された場所に行っていないと注意されるが、シンクタンクのバイトや家庭教師は多少遅くなってもきっちり仕事をすれば誰も気にしない。遅刻するとわかった瞬間に行きたくなくなるというのは注意されるのが嫌だったからだ。友達との約束には行けるけどサークルには行きたくなかった理由もそれだ。授業も出席が厳しい授業ほど行きたくなかったし、同じことだ。時間にルーズなことを治さないといけないと思っていたが、ある程度融通が効く環境を選ぶことも重要だ。

 

今は健康で文化的な生活を送れているから、これが少しでも続くように気を配っていきたい。