猫の額

猫が好きな大学生のブログです。

大学に行けないこと

今日も学校を休んでゲームをしたり寝たりしていた。遅く起きてさらに昼寝をしたのでもう4時なのに眠れない。明日もまた1限があるのにこれではもう6時なんかには起きられない。遅刻だということが確定した瞬間に諦めてしまうのは悪い癖である。高校時代は頑張って通っていたが、それでも遅刻して行っても意味があるときだけだったし、欠時が一定以上になると問答無用で単位が落ちるシステムだったので、割と「這ってでも」通学していた気がする。当時は必修科目やら受験科目やらで「いらない科目」というものが存在しなかったためか、あまりしんどくなかったように思う。そしてそれなりに授業が面白かった、ように思う。

浪人時代も1週間に1回は1限から出席できない日があったが、それでも週1にとどまっていた。たぶん。まあ、受験という身近なゴールに向かって規則正しい毎日を送っていたし、勉強以外をする必要もなかったためだろう。

大学入学後、最初の3週間ほどはきちんと出席していたが、それ以降はガタガタになっていった。それでも6月頃まではなんとかやっていたと思う。サークルとアルバイトをそれぞれ2つずつ掛け持ちした結果として、7月以降ストレスから食欲不振に陥り、下旬には入院することになってしまった。なんとか1週間で退院したが、直後には試験が控えており、勉強も不十分なまま突入し、かなり単位を落としてしまった。サークルを1つやめ、バイトも1.5くらいに軽くしたが、残した方のサークルでのストレスのせいか、後期も体調が思わしくなく、取れたのは4単位ほどだった。進級要件を満たせなかったため、あえなく留年した。

一年生2回目だが、これもまた朝から通学することができなかった。午後から行くことさえ難しくなってきた。どんな人でも取れるとさえ言われている必修の英語の単位を落とし続けており、今年もまだ取れるかどうか怪しい。

そして最近ストレスによる食欲不振がぶり返してきており、処方される薬が増えた。ストレスのかかりやすい接客業のアルバイトを減らすため、時給の高い家庭教師のアルバイトを始めた。しかし、接客業のアルバイトをパンパンに入れていた頃の方が収入が大きく、焦ってしまう。しかし、今の体調が安定していない状態だけでもストレスフルなのに、接客業でさらにストレス源を増やすことは自殺行為である。また入院する羽目になりかねない。金銭的な焦りに関しては支出を抑えることで抑制するしかない。では体調面はどうするか。

体調不良の原因はストレスであろうと思われるので、ストレス源を除いてゆくのがセオリーだろう。まず大学。

授業の開始時刻に間に合うように起きて、きちんと身支度をして朝食を取り、家を出なければならない。駅までとぼとぼと歩かねばならない。満員電車でできるだけ他人に触れないように注意しながら眩暈と戦い続けなければいけない。人に揉まれながら乗り換えなければならない。乗り換えた先も満員電車。電車から降りたらこれまた人混みの中を歩いて大学に向かう。昼間人口過密の東京都を呪う。朝から会話などしたくないため、教室に着いてからも見知った顔がないことを祈る。授業中は特に身のあることは学べないため、退屈と戦う90分間である。元気な時は読書や勉強などもできるが、あまり元気でない時は耳から一定のノイズが入ってくる中では読書などする気も起きず、ただ講師の話を聞き流すだけの苦痛タイムと化す。昼食の時間は混んだ生協で食べたいものを物色し、長い列に並んでやっと購入する。食べる場所もあまりないので適当なフリースペースや教室などで済ませる。昼食の内容や食べる場所を考えるのもかなりの苦痛である。

そうはいってもやはり、学生なのだし、これ以上留年したくはないし、学校に行けなければ話にならない。目標は1限から出席すること。そうなると7時半には家を出ないといけないから、最初は6時半には起き、ゆっくりでもよいから支度をして、遅刻してでも登校することを第一段階にしたい。少し慣れてきたら満員電車を回避するために少し早めに家を出てもいいかもしれない。混雑した生協に行かなくてもいいように、昼食を買っておくのもいいかもしれない。

次にサークル。同期はあまり論理立てて話すのが得意でないようで、議論にならないことが多かった。また、作業ができる人間がいなかったため、しわ寄せが来ていた。まあ、2年やったあとは12月をもって代替わりなのでそれもなくなる。人間関係も希薄なので、これから先関わることはないだろう。ひっかかるとすればOBからの呼び出しだが、今年ほどではないだろうし上手いこと折り合いをつけられるだろう。

その次はアルバイト。接客業のアルバイトは、着替えるために15分前にはアルバイト先に着いておくこと、見知らぬ他人と話すこと、店員同士の会話、商品を覚えること、などがストレス源だと思う。このアルバイトはキリがいいので今年度で辞める。辞められなくても月に1回やるかやらないか程度に留められる。

これだけ書き出してみると、朝に時間的な余裕を持つことと、ストレス源からはさっさと遠ざかることで解決策となることが分かった。こんなにシンプルなのに思い至らなかった、いや実行に移さなかったのは、現状を変える気がそこまでなかったからかもしれない。

 

ストレスで死ぬ前に、自分の周りだけでもなんとかして生きやすく整えながら生きていきたい。

 

須賀敦子の著作を読んで考えたこと

須賀敦子全集 第1巻を読んでいる。

きっかけは「独立した女性になりたいのならば須賀敦子の作品を読め」というような旨のツイートだっだと思う。それはフォロイーのものだったか、それともリツイートされたものだったかあまり覚えていない。とにかく、一刻も早く独立したい私はそのままアマゾンで『塩一トンの読書』と、この『須賀敦子全集 第1巻』を購入した。全集は全部で八巻あったのだが、知らない作家の作品を九冊も買うのは気が引けたので、とりあえず二冊を購入した。『塩一トンの読書』には、表題をタイトルとした読書にまつわるエッセイや著者が書いてきた解説が載っている。この解説は彼女の本への愛と、翻訳書ならば原書への敬意、そして彼女が読んできた本の多さを伺わせる。そして、イタリア語とフランス語、英語を扱えるという語学感覚が現れている上品でレトリックに満ちた文章が何よりも魅力的だった。彼女の著作の中では様々な文学作品が取り上げられ、主に彼女のイタリアでの経験と共に語られている。

まだ一冊しか読了しておらず、二冊目もまだ四分の一ほどしか読み進められていないが、この作家の作品は読むのに時間がかかると確信している。もともと小説か学術書の類ばかりで随筆やエッセイを読んでこなかったからかもしれないが、他のものよりも数倍の時間と気力を要する。冗長さは一切感じさせないがレトリックが豊富で、情景の細部まで想像できるような表現がなされているからかもしれない。そして、節(あるいは章)ごとの終わりで、彼女の一言では言い表せない感情がゆっくりと静かに染み込んでくるために、その余韻に浸らざるを得ない。それは決してポジティブではないのだが、ある種の軽ささえ感じさせるために全く不快にもならず、作者がおそわれた感情に共鳴し、浸っていたくなるのである。

何よりも気に入ったのは彼女の「友人」という枠組みである。月並みに人間関係に悩んでいるのだが、人間関係などは考えていても自分だけでは解決せず、予想外のきっかけから予想外の方向へ転がっていくことが多いものであるから、あまり深く考える必要もなく、話をしていたい人、していられる人を友人と呼べばよいのだと思った。閉ざす必要もないし、過剰にオープンになる必要もなく、ただ自分の興味の赴くままに人と接すればよいのだと思う。ただ、現時点で興味が沸かなかったとしても、後々の自分は違うかもしれないし、自分が気づかないだけでとても魅力的な人間なのかもしれないということは念頭に置いておくべきだろう。

 

やりがいのある仕事とNPOで働くこと

これから先どんな仕事をしたいのか考えていた時、高校時代に将来のことを考えようとかそういうテーマの授業で「やりがいのある仕事がしたい!」と語っていた同級生を思い出した。机の上にはNPOに関する書籍などが山積みになっていた。「お金とかそんなの気にしないし!」

当時は人生を左右する職業を、置かれた環境や社会状況によっていくらでも変わるやりがいという概念で選ぶなど愚かなことだと思った。基本的に一度職種を決めて就職してしまえばいくら転職しようとも退職するまでは同じ職種に就き続けるもので、一念発起して職種から変えるような場合などほんの一握りであるはずだ。それと同時にやりがいさえあれば収入はどうでもいいのかという疑問も湧いたことを覚えている。

そもそも「やりがい」とはなんなのだろうか。金銭と切り離されたものなのか。実はNPOに関わると儲かったりするのだろうか… non profitなのに?同級生の発言から察するに前者なのだろう。そうだとすれば、儲からないが他人のためになることをするのが「やりがい」なのか。では一般化して、「やりがい」を他人からの要求を満たすことで得られる充足感とでも定義づければよいのだろうか。他人に必要とされる仕事というのは「やりがい」があると言うと尤もらしい。そう考えると生活が成り立つような仕事ならば、対価が発生するほど他人に必要とされていると言えるし、それならばどのような内容であっても「やりがい」があると言えそうである。

ここで「やりがい」の語句的な意義を探ってみたい。「〜したかいがあった」、「〜するかいがある」、「〜しがいがある」という言い回しから「やりがいがある」というフレーズが派生して、一部分である「やりがい」がひとつの言葉として成立したのだろう。「〜したかいがあった」と言う時、「〜した」と指された内容をしたぶんの努力、労力、時間など、その事柄にかけたものが報われた、効果があったということを意味する。過去形であることから、報われたことが明らかになっていたり、効果が目に見えていたりするのだろう。「〜するかいがある」、「〜しがいがある」と現在形であれば、報われることや効果が目に見えているか十分に期待できることが窺える表現になる。「やりがいがある」となれば、やる=おこなうだけの報いや効果が十分に期待できるという意味になる。そうすると、「やりがい」は「おこなうだけの十分な報いや効果への期待感」を意味することになる。そうであるならば、「やりがいのある仕事」は「おこなうだけの十分な報いや効果が期待できる仕事」であり、「やりがいのない仕事」はそうでない仕事を指すだろう。
さて、では「やりがいのある仕事」で期待される「おこなうだけの十分な報いや効果」とはなんだろうか。きっとここが曲者なのだ。人によって何を報いや効果とするかが違う。やりがいのある仕事がしたかった同級生は、仕事の報いを金銭でなく、他人への奉仕に近い活動(NPOによる活動をそのように認識している)から得られる何かに求めたのだろう。その何かとは、奉仕相手から向けられる感謝なのか、奉仕することで得られる自己満足感なのか、それとも想像もつかない、それこそ「何か」なのかはわからない。

そもそも、NPOというのは金銭的に余裕のある人々によって慈善活動などをおこなうために設立されたのではなかったか。本質的にNPOとは必ずしも正当な対価を求めるものでなく、必要ともしないものなのだ。生活に余裕があるからこそ、その余剰でNPOの活動ができるのであって、NPOを仕事とする、稼ぐ手段とするのは本末転倒ではないか。やりがいのある仕事をしたかった同級生は、生活に余裕ができる程度に稼いでNPOに寄付をしたり奉仕活動をすればよいのではないだろうか。

 

やりがいのある仕事とは人それぞれで、金銭であってもやりがいにはなりうる。そして、やりがいを求めてNPOで働くというのはすこし御門違いだというべきところか。

新規開設

ブログを開設した。


Twitterのアカウントはもう数え切れないほど所持しているが、アクティブなのは5つほどだ。久しぶりに140字以上の文章を書きたくなったこともあるが、少し頭を整理したくなったからかもしれない。というのも、140字以上を書きたくなった時は大抵連続ツイートをして長大なツリーを形成していたからだ。気軽ではあったが、それぞれのツイートは単発であって、前後関係を意識しながら推敲するのが難しかった。年末の不安な時期になにか新しいことをしたくなったのかもしれない。
このようなブログ記事を投稿するのは初めてではなく、中学生ぶりだ。当時は日記の代わりにやっていた記憶があるが、後半は友人のブログを見て回るためだけのアカウントになっており、日記自体は3回ほどで更新をやめてしまったように思う。日々にあったことを書き留めることに楽しさを見いだせず、それよりは本を読んだり他人の生活を垣間見たりするほうが面白いと感じていたのだろう。


きっとこのブログも3日坊主で終わりそうだが、それでも今日少し新しいことをしようと思ったことを形に残しておきたかった。