猫の額

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やりがいのある仕事とNPOで働くこと

これから先どんな仕事をしたいのか考えていた時、高校時代に将来のことを考えようとかそういうテーマの授業で「やりがいのある仕事がしたい!」と語っていた同級生を思い出した。机の上にはNPOに関する書籍などが山積みになっていた。「お金とかそんなの気にしないし!」

当時は人生を左右する職業を、置かれた環境や社会状況によっていくらでも変わるやりがいという概念で選ぶなど愚かなことだと思った。基本的に一度職種を決めて就職してしまえばいくら転職しようとも退職するまでは同じ職種に就き続けるもので、一念発起して職種から変えるような場合などほんの一握りであるはずだ。それと同時にやりがいさえあれば収入はどうでもいいのかという疑問も湧いたことを覚えている。

そもそも「やりがい」とはなんなのだろうか。金銭と切り離されたものなのか。実はNPOに関わると儲かったりするのだろうか… non profitなのに?同級生の発言から察するに前者なのだろう。そうだとすれば、儲からないが他人のためになることをするのが「やりがい」なのか。では一般化して、「やりがい」を他人からの要求を満たすことで得られる充足感とでも定義づければよいのだろうか。他人に必要とされる仕事というのは「やりがい」があると言うと尤もらしい。そう考えると生活が成り立つような仕事ならば、対価が発生するほど他人に必要とされていると言えるし、それならばどのような内容であっても「やりがい」があると言えそうである。

ここで「やりがい」の語句的な意義を探ってみたい。「〜したかいがあった」、「〜するかいがある」、「〜しがいがある」という言い回しから「やりがいがある」というフレーズが派生して、一部分である「やりがい」がひとつの言葉として成立したのだろう。「〜したかいがあった」と言う時、「〜した」と指された内容をしたぶんの努力、労力、時間など、その事柄にかけたものが報われた、効果があったということを意味する。過去形であることから、報われたことが明らかになっていたり、効果が目に見えていたりするのだろう。「〜するかいがある」、「〜しがいがある」と現在形であれば、報われることや効果が目に見えているか十分に期待できることが窺える表現になる。「やりがいがある」となれば、やる=おこなうだけの報いや効果が十分に期待できるという意味になる。そうすると、「やりがい」は「おこなうだけの十分な報いや効果への期待感」を意味することになる。そうであるならば、「やりがいのある仕事」は「おこなうだけの十分な報いや効果が期待できる仕事」であり、「やりがいのない仕事」はそうでない仕事を指すだろう。
さて、では「やりがいのある仕事」で期待される「おこなうだけの十分な報いや効果」とはなんだろうか。きっとここが曲者なのだ。人によって何を報いや効果とするかが違う。やりがいのある仕事がしたかった同級生は、仕事の報いを金銭でなく、他人への奉仕に近い活動(NPOによる活動をそのように認識している)から得られる何かに求めたのだろう。その何かとは、奉仕相手から向けられる感謝なのか、奉仕することで得られる自己満足感なのか、それとも想像もつかない、それこそ「何か」なのかはわからない。

そもそも、NPOというのは金銭的に余裕のある人々によって慈善活動などをおこなうために設立されたのではなかったか。本質的にNPOとは必ずしも正当な対価を求めるものでなく、必要ともしないものなのだ。生活に余裕があるからこそ、その余剰でNPOの活動ができるのであって、NPOを仕事とする、稼ぐ手段とするのは本末転倒ではないか。やりがいのある仕事をしたかった同級生は、生活に余裕ができる程度に稼いでNPOに寄付をしたり奉仕活動をすればよいのではないだろうか。

 

やりがいのある仕事とは人それぞれで、金銭であってもやりがいにはなりうる。そして、やりがいを求めてNPOで働くというのはすこし御門違いだというべきところか。