猫の額

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須賀敦子の著作を読んで考えたこと

須賀敦子全集 第1巻を読んでいる。

きっかけは「独立した女性になりたいのならば須賀敦子の作品を読め」というような旨のツイートだっだと思う。それはフォロイーのものだったか、それともリツイートされたものだったかあまり覚えていない。とにかく、一刻も早く独立したい私はそのままアマゾンで『塩一トンの読書』と、この『須賀敦子全集 第1巻』を購入した。全集は全部で八巻あったのだが、知らない作家の作品を九冊も買うのは気が引けたので、とりあえず二冊を購入した。『塩一トンの読書』には、表題をタイトルとした読書にまつわるエッセイや著者が書いてきた解説が載っている。この解説は彼女の本への愛と、翻訳書ならば原書への敬意、そして彼女が読んできた本の多さを伺わせる。そして、イタリア語とフランス語、英語を扱えるという語学感覚が現れている上品でレトリックに満ちた文章が何よりも魅力的だった。彼女の著作の中では様々な文学作品が取り上げられ、主に彼女のイタリアでの経験と共に語られている。

まだ一冊しか読了しておらず、二冊目もまだ四分の一ほどしか読み進められていないが、この作家の作品は読むのに時間がかかると確信している。もともと小説か学術書の類ばかりで随筆やエッセイを読んでこなかったからかもしれないが、他のものよりも数倍の時間と気力を要する。冗長さは一切感じさせないがレトリックが豊富で、情景の細部まで想像できるような表現がなされているからかもしれない。そして、節(あるいは章)ごとの終わりで、彼女の一言では言い表せない感情がゆっくりと静かに染み込んでくるために、その余韻に浸らざるを得ない。それは決してポジティブではないのだが、ある種の軽ささえ感じさせるために全く不快にもならず、作者がおそわれた感情に共鳴し、浸っていたくなるのである。

何よりも気に入ったのは彼女の「友人」という枠組みである。月並みに人間関係に悩んでいるのだが、人間関係などは考えていても自分だけでは解決せず、予想外のきっかけから予想外の方向へ転がっていくことが多いものであるから、あまり深く考える必要もなく、話をしていたい人、していられる人を友人と呼べばよいのだと思った。閉ざす必要もないし、過剰にオープンになる必要もなく、ただ自分の興味の赴くままに人と接すればよいのだと思う。ただ、現時点で興味が沸かなかったとしても、後々の自分は違うかもしれないし、自分が気づかないだけでとても魅力的な人間なのかもしれないということは念頭に置いておくべきだろう。